結局受け手にある

最近は、オーディオ装置に火を灯す(古い表現)ことはめったに無くなってしまいました。
聞きたくない訳ではなく、落ち着いて聞く気にならないといったところです。
年金生活になってオーディオ三昧なんていう夢は、今は昔のことです。
多分死ぬまで働き続けるんだろうなと思うと、何となく、じっくりとオーディオ装置から流れる音楽に耳を傾ける気がしません。
頭の中をいろいろな曲が流れていくのでそれはそれでいいのだろうと思います。

最近思うようになったのは、名曲の押し付けという教育の問題です。
世の中何でもそうですが、ユーザーの無知をいいことに価値を押付けられることが多いと思います。
小学校の音楽の時間でも、これは名曲だ、と云われて聞かされるのですが、だからといって、それに心を動かされるとは限らない。
それが名曲と云われるという知識を身に付けることには反対しませんが、個々の問題といえば、名曲と感じるかどうか聞き手が決めることに他なりません。
自分はというと、音楽の教科書に出てくる名曲よりも、全然相手にされない曲に好きなものが多いです。

きっかけは、何となく聞き始める、とか。
以前には、カセットテープにちょうどよく収まる長さの曲だった、なんていうものもあります。
自分の好きなのは、カセットテープの長さにちょうどはまるものが多かったように思います。
最初に聞き始めたオペラは、グリンカの『イワン・スサーニン』。ソビエト時代に聞き始めたのでいまでは、タイトルもお話も変わっているみたいです。
これが、幕ごとにカセットテープにちょうどいい余裕で入るくらいの長さでした。
その次は、ウェーバーの『魔弾の射手』。これは、90分テープ3面に収まるちょうどよい長さでした。
交響曲では、ショスタコービッチの交響曲第8番というのがあります。
極薄の120分テープにちょうど収まる長さでした。
こういう曲を聞き続けると、最初は妙な感じがしていても、だんだんハマってきたりします。
最終的に聞き手である自分が受容する曲が、自分にとっての名曲になります。
学校で押付けられてもそれで好きになるわけではありません。
もちろん、さんざん違うものを聞いた後に、改めて聞いて価値を感じるということは多いでしょうが、それは、決して押付け教育の成果ではありません。

いまは、カセットテープを使わないので、CDに入る長さの曲なら聞きやすくなりショスタコービッチも全曲聞くようになりました。
それでも8番がいちばん好きなのですが、全曲の中の専門家推奨の名曲ではありません。
それでも、価値を決めるのは聞いている自分自身なんだと思います。
願わくは、不人気の曲でもその気になれば聞けるような著作権環境を残して欲しいと思います。

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by mcap-cr | 2018-03-21 19:37 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

工学オーディオに取組むオカルト嫌いです。


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