2020年 09月 15日
手段の極小化
まだ総理大臣にはなっていませんが、マスコミはすでに総理になったかの伝え方ですね。
政権与党の代表は、ふつう総理大臣になりますが、代表以外が総理大臣になるのもありだろうと思います。
序列がわかりにくくなるのでよほどの理由がない限りそういうことはないでしょうけど。
こういう時期なので無理せずに地道にやってほしいと思います。
解散は近いうちにあるでしょうね。
最近、意識的にオーディオマニアという自分を別な世界に引き戻して今までの幻想に気付くようになりました。
オーディオをいくら極めても音楽会の必要性はなくなりません。
自分はオーディオでいいからと、生で聞くことを放棄してしまうと、音楽業界全体がしぼんでしまいます。
有名レーベルでCDがたくさん出ていて、世界中で有名な演奏家の演奏でなかれば有り難くない、というのは幻想でした。
自分の贔屓の演奏家は自分で探し出すものです。
その結果、有名大演奏家にいきつけばそれでいいですし、案外、そうでなくなるかもしれません。
思えば、それまで名前を知らなかったものの、実際に聴いてみてその味に気づいた演奏家はすくなくありません。
オーディオという別な変換を加えた音楽を聴いて、違和感があったのに、理由を自分で考えて納得したというものもあります。
たとえば、フォン・カラヤンの録音。
マイクをたくさん立てて楽器を分離して録音する。
きっと、指揮者という性質上全ての演奏者の音を聞きたかったに違いありません。
現役指揮者や指揮者を目指す人にとってかけがえのない音の文献となったのでしょう。
そういう難しいことが分からないので、演奏会で聴けるのと同じように聴きたい、という自分のような人にとって、カラヤンの録音が最適ではなくても、音楽を勉強する人には貴重な録音だったのだと思います。
こういうものは、音響という、技術者のような視点だけで斬ってはいけません。
ホールの空間の音を忠実に再現したい、というのは、プロの演奏家の志向とは違うのだと思います。
プロの演奏家は、音楽そのものが命なので、ホールの影響がすくないほうがいいのかもしれません。
名曲に名録音なし、とか、名演奏に名録音なし、とか云われたのも、音楽のプロに徹すると、それ以外の要素がノイズに過ぎなかったからかもしれません。
私は、音楽の中に、自分の感情を入れて聴きます。
自分では決して演奏できないが、音楽の刺激を自分の感情に注入して瞑想する。
その瞑想が心地良ければそれがいい音楽だと感じます。
逆に、瞑想が地獄のようならそれも音楽として素晴らしい。
好きか嫌いは別な問題ですが。
オーディオでは決して再現できないのは、会場の一体感です。
自分をオーディオの音楽に一体化させるのは難度の高い取り組みでしょう。
オーディオという手段を極小化すると、余分な感情(勘定)が取り払われます。
最後はオーディオ趣味の完全放棄なのだろうと思います。
生きているうちにそれができれば一段高いレベルに到達するのでしょう。
まだまだ俗物根性を捨てきれない自分には無理か。
が、考え様によっては「変われる自分」(意固地になったり、「真実」に目を背けたりしていないのだと)を褒めてもいいかもしれないかとも勝手に思っています。
独り言ですすみませんm(_ _)m
人間は、いくつになっても不完全ですから、多少なりとも進化できればいいのではないかと思います。
若いうちにいろいろ吸収しておけば、年老いてからも進化しやすいですがなかなかそうもいかないのが辛いところです。
意固地になったり真実から目をそらすのは陥りやすい罠ですが、そういう人を反面教師にして少しでも悪化しないよう食い止められる自分なら褒めてあげたいです。

